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side燿
「双葉ッ!」
無我夢中だった。双葉の悲鳴で男がうろたえた一瞬を突き、私は駆けだした。まずはナイフを持つ手を蹴り上げてナイフを吹っ飛ばす。
「がっ…!」
男は思わずと言った風に双葉を離し、蹴られた手を庇ってうずくまった。自由になった双葉はよろよろとよろめいて、がくんとその場にへたり込んだ。頽れそうな身体を抱きとめる。
「双葉!双葉ッ!しっかりしろ!もう大丈夫だから!」
双葉の顔を覗き込んだ瞬間、背筋に冷たいものが走った。
双葉の様子は、私のよく知る可愛くて癒し系な姿とはかけ離れていた。自分を守るようにがくがくと震えている身体を抱きしめ、綺麗な紅茶色の瞳は濁りきって焦点が合うことなく、眼球がまるで痙攣するかのように小刻みに揺れている。
「あ、ああ…わたし…嫌…わたし…」
「ふ、双葉…?おい、双葉!どうしたんだよ、もう大丈夫だって!」
おかしい、なんでこんな…。どんなに呼びかけても意味の分からない言葉を綴るだけ。ただ身体を震わせるだけで答えてくれない。
「燿!大丈夫!?」
「双葉がどうしたの!」
駆け寄ってきた十六夜と斎希を呆然と見上げる。二人も双葉の様子を見るや顔を凍らせた。
「なに、これ…」
「いったいどうしたというの…?」
十六夜と斎希にも反応しない双葉に、今度は私の身体が震えだした。もう震えているのは双葉なのか自分なのかもわからなくなりそうだ。目の前がどんどん暗くなっていく。私が守ると決めたのに、また私は守るべき人を守れないのか。
後ろでうめき声が聞こえた。みれば双葉を襲ったやつがふらふらと立ち上がろうとしている。ぶつり、と頭の中でなにかが切れる音がした。それと一緒にありとあらゆる負の感情が、まるで水蒸気爆発のように噴き出した。
お前のせいか。お前が双葉をこんなにしたんだろう。爆発した昏い情念に任せてすかさず手をひねり上げて組み伏せる。男の顔に苦悶の表情が浮かぶ。まだだ、こんなものじゃまだ足りない。私の双葉に手を出した罪はこんなものじゃない。起き上がろうとする男の身体を踏みつけてまた地面に這いつくばらせた。どす黒いものが頭を埋め尽くしている。目の前はもう真っ暗だった。
「燿!」
制止するような斎希の声も、私には聞こえていなかった。
さあ、どうしてやろうか。悲鳴も上げられないくらい痛めつけてやろうか、それとも精神的に追い詰めてやろうか。指先がちりちり、ぴきっと音を立てた。
「ねえ、おにーさん」
猫なで声でささやくと、男の身体がびくっと震える。
「私、優しいから選ばせてあげるよ。ものすごく痛いのか、ものすごく怖いのか…どっちがいい?」
「ひ、ひぃ…ッ!」
がくがくと震えだすさまににぃっと口角を吊り上げる。そうそう、そうやってしっかり怖がってくれないと。
「どうしたの、ほら選びなよ。それとも…痛くて怖いのがいいのかな?」
男の頬を人差し指でつつ、となぞる。指が通った場所からなぜか筋状に血が滲み出た。
「ひ、ひぃぃ…!た、たすけて…!」
「助けて?なにから助けろってんだよ。お前はもう犯罪者なんだぞ。どっちにしたって助けなんて来ないって」
いつもなら絶対やれないような悪辣非道なことが次から次へと脳裏をよぎっていく。どれにしようか、楽しんでいる自分さえいた。
それは、まぎれもない「殺意」だった。普段生きていれば感じないはずのその感情は、まるで蛇の毒のように全身にまわっていき、私の身体を蝕んでいた。右手の指先がひび割れていくような感覚がする。それは次第に手全体に広まっていき、そして…砕け散った。
「ひ、ひぃぃッ!ば、化け物…!」
男の声をBGMに自分の手をまじまじと見つめる。そこには、人間の柔らかな手からは程遠い、鋭い爪のようなものへと変貌していた。手のひらもあるし、指も五本だ。しかしその指先…正確に言えば第二関節より先は鋭利に肥大化しまるで神話の怪物の爪。なんで?とは思った。でも、不思議とそれ以外の感情は浮かばない。
「手が…変わった…?」
十六夜が呆然と呟く。
「燿…あなた…」
斎希も信じられないというように瞠目している。
でも、これがなんだってんだろな。それが正直な感想だった。だってみんなフツーじゃ考えられないようなこといっぱい経験してんのに、今更私の手がちょっと物騒になったからってそんな。そんなことよりも、今はやるべきことがある。
双葉を苦しめた罪人を断罪しないと。
「これ、切れ味どれくらいなのかな?確かめてみたいねえ」
「い、命だけは…!」
「あー、善処するよ。そんなさっさと逝かれちゃつまんないしね。でも…」
ミスって死んじゃっても…恨むなよ?
男が凍り付くのと同時に、私は右手を振り上げ…そして振り下ろした。
「いい加減になさい。燿」
私の右手は、男に届くことはなかった。私の右手のひらを、よくよく見慣れた刀の鞘が受け止めていた。誰の仕業かなんて見るまでもない。視線を向けることなく口を開いた。
「…何の真似だよ、斎希」
「その言葉、そのままあなたに返すわ。いったいどういうつもりかしら」
聞いたことのない鋭い声が返ってくる。
「…双葉を苦しめたやつを成敗するだけだっての」
「それで打ち首にでもするつもり?それが許されるのは戦国の昔だけよ」
「…殺しはしないって」
「ならどうする気だったのか教えてもらいましょうか。言っておくけれど、これだけの勢いで振り下ろしておいて寸止めするつもりだった、なんて言い訳は通用しないわよ」
「…」
言葉はなかった。正直、殺すつもりはなかったのは事実だ。だがそれは、「殺さなければいい」に近い。むしろ殺された方が楽だと思えるような苦しみを与えようと思っていたくらいなのだから。
「私が止めなければ、あなたは間違いなく道をはずれていたわ。そうなったら双葉に顔向けできなくなる。いいえ、それ以上に…あなたの心に傷がつく」
思わず斎希の方を見た。この状況で、私を心配してるのか?こいつは。
「…この状況で私の心配してんの?」
「当然でしょう。燿、あなたは私の大切な仲間なのよ。そのあなたに、こんな人が原因で無意味な傷をつけさせたくないの。それに…あなたがそんなことをしたら…双葉が間違いなく悲しむわ」
綺麗な黒い瞳がまっすぐにこっちを見ていた。それを見ているうちに、さっきまで頭の中であれほど燻っていたどす黒い殺意がまるで霧が晴れるように薄れていく。
「斎希…」
「燿、お願い。矛を収めて」
静かで、でも確かな気遣いを宿した声をかけられた私には、もう頷く以外の選択肢はなかった。男を押さえつけていた足をどけ、数歩後退る。つばぜり合いから解放された右手は、音もなく元の人間の手へと戻っていった。見れば、男はショックで気絶している。これなら警察が来る前に逃げだすようなこともないだろう。
「ごめん…斎希」
「いいのよ。仲間が道を違えそうになったら修正する。それも仲間としての役目でしょう。でも…良かった、あなたが…こっち側に、来なくて…」
「こっち側…?」
小さく呟かれた言葉に、思わず訊き返した。こっち側って…どういう意味だ…?
「いえ、何でもないわ。それより…今は双葉のことよ」
「あ、ああ…双葉は…!」
見れば、双葉はもともと私らが座っていたベンチに寝かされ、十六夜が着ていた上着がかけられていた。十六夜も隣に座っている。斎希とともに走り寄った。
「十六夜!双葉は…!」
「…今は眠ってるよ。体力を使い切ったみたいだね」
色々言いたそうな顔はしているものの、十六夜は何も聞くことはなかった。私らのリーダー張ってるだけのことはあり、こういうときの距離感は心得ているらしい。それに甘えて私も何も言わず、双葉の側にしゃがみ込む。顔は血の気がなく、目の下には隈までできているようだ。生きているのか一瞬ドキッとするほどにぐったりとしている。頭の中で答えの出ない問いが渦巻く。双葉…いったいなにがあったんだよ…。
「…少し離れている間に、大変なことになっているようですね」
後ろから張り詰めた声がした。振り返ると小さな包みを持った刹那が、珍しく難しい顔をして立っていた。
「刹那…。お前今までどこにいたんだよ」
「エルフィアに似合いそうな首輪を見つけたもので。たまにはあの子にお土産でも、と思いまして」
「刹那、双葉が大変なの…!事件に巻き込まれたと思ったら、急に様子がおかしくなって…!」
「ええ、大まかなことは聞いています。まさか双葉がこんなことになっているとは思いませんでしたが」
刹那は双葉の側までやってくると、わずかに息を飲んで目を見開いた。視線の先を辿ると、双葉の手。あの男が持っていたナイフから垂れたのであろう血がついている。気持ち悪いだろうが…あれがなにかあるのか。
「…まずはいったん戻りましょう。双葉を休ませなければ」
「…ええ、そうね。十六夜、双葉をおぶれるかしら」
「了解。…燿も行くよ」
「…わーってるよ」
ちらっと男の方を見ると、ちょうど到着したらしい自警団に連行されていくところだった。
「あと、向かいのお店の子にお昼は遠慮する旨伝えてこないと。少し待っていてくれるかしら」
「わかりました。私たちはここにいますので」
刹那の言葉に頷いて、斎希は向かいの店へと歩いて行った。双葉の身体を支えて十六夜におぶらせ、一息つく。何気なく刹那の方を見ると、偶然目が合った。こいつには、色々と聞かないといけないことがある。
「…刹那」
「…今は双葉を休ませるのが先決です。話をするのはあとでもいいでしょう」
…正論だ。今は話をしているときじゃない。ちょうどそのタイミングで戻ってきた斎希とともに、人気のない路地へと入ると、転送装置で基地へと帰還した。
「おかえりなさい、せつな様!それにみなさんも…あれ、ふたばさんどうかしたんですか」
戻るとエルフィアが寄ってきた。刹那はエルフィアを抱き上げると、私たちに向き直った。
「皆さんは双葉を部屋へお願いします。それに皆さんもさぞお疲れでしょう。まずはゆっくり休んでください。...日が暮れたころに、話をいたしましょう」
刹那の言葉に頷いて、部屋を出る。出たところにあるテーブルで捺波が水を飲んでいた。怪我をしている捺波をあちこち連れまわすわけにはいかないと、本人の希望もあり今回は残っていたのだ。
「…お帰り、みんな。...あれ、双葉…?それに…みんな、悲しそう…大丈夫?」
私たちのただならぬ雰囲気を感じたらしく、捺波が不安そうに尋ねてくる。まあ、さすがに話さない訳には行かないよな。軽く息をついて捺波の側に行こうとすると、斎希に制された。どうやら説明役を買って出てくれるらしい。
「あなたは一度休んだほうがいいわ。捺波には私から話しておくから」
正直休める気はしなかったのだが、厚意を無下にするのも申し訳ない。この場は斎希に任せて十六夜と部屋の方へと向かった。当然のように双葉の部屋まで行こうとすると、十六夜が双葉の部屋の前で振り返った。
「斎希に言われたでしょ。あんた一度部屋で休みな。双葉にはあたしがついてるから」
「え…」
「一度気持ちを落ち着かせて頭を整理する時間も必要でしょ」
「や、でも…」
「いいから、リーダー命令」
「……わかった。双葉を、頼むよ」
ここまで言われるほどに、私は今ひどい状態らしい。まあ、否定しないけどさ。双葉の頭を軽くなでると、あとは十六夜に任せて自室に戻った。ベッドにぼふんとダイブ。寝っ転がると、なんだか身体がベッドにずぶずぶと沈み込んでいくような感じがする。色んなことがあり過ぎて気付かなかったが、やっぱり疲れてはいたらしい。でも、だからといって寝れる感じはまったくなかった。慰み程度に目を閉じると、瞼の裏に双葉のあの様子が浮かび上がる。あんな怯え切ってどうしようもなくなった双葉に、私はなにもできなかった。双葉が人質に取られる前に助けてやれたら、そしたらこんなことにはならなかっただろう。
結局いつだって私は無力なのだ。
「…」
ふと自分の右手を見つめる。あのときの、あれ。右手が変になったあれは結局何だったんだろう。今でもできるのかと色々試してみるが、うんともすんとも言わない。思わず乾いた笑いを挙げて、手の甲で目を覆う。気付かない間に変わってて怪我とかしたら困るな、なんて現実逃避に勤しむくらいに何も考えたくなかった。
どうにか気を紛らわせようと、音楽でも聴くかと身体を起こす。身体がずっしりと重い感じがした。ジャンジャカしたノリのいい曲は頭に響きそうだ。静かなヒーリングミュージックでも流そう。
それでしばらくぼーっとしてればいつか寝れるだろう、と希望的観測を通り越してもはや願望的空論を掲げて、私は端末をいじるために立ち上がった。