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しばらく、誰も何も言わなかった。反応することすらできなかったのだろう。当然の反応だと思う。

「…うそ。うそだ」

燿が今にも崩れそうになりながら壊れた人形のようにつぶやいた。彼女は、双葉の純粋無垢さを信じきっていた。双葉をなによりも汚れから遠ざけようとしていたのだ。その双葉の手が…彼女と会う前から血で汚れていたのかもしれないなどと、到底受け入れがたいのだろう。
「ふ、双葉が…ひ、ひと…を?そんな、嘘でしょう…」
斎希も呆然としている。十六夜も、捺波も同様だった。何よりもそういった犯罪からは縁遠い存在だと思っていた双葉の過去が、これほどまでのものだったとはだれも思うまい。ただ、ひとつだけ伝えなくてはならない。
「安心してください。双葉は誰も殺めてはいません」

私の言葉に、明らかに燿たちの張りつめた空気が弛緩した。

「本当に?刹那、嘘とかついてないよね?」
「ええ。凶器が重い大理石の置時計であることは明確ですから、まだ幼かった双葉に扱えたとは考えにくいと当時の警察も捜査の結果そう断定しています」
「…はぁ…ッ」

ひと安心して力が抜けたのか、燿がぼすんとソファーの背もたれによりかかった。
「燿、大丈夫ですか?」
「…ああ。…めまいはしてるけどな」
こめかみを押さえてふらつく燿を、十六夜の隣に座らせる。
「執事が部屋に入った時双葉は呆然と立っていて、執事が声をかけると糸が切れたように気を失ったそうです。執事は遺体と凶器を動かし、双葉が握っていたシルバーから指紋をふき取って日田氏の指紋をつけ、気絶した双葉をいったん寝かせて隠し、その後警察らが来るまでの間に隙を見て浴びた返り血を洗い流して部屋に寝かせておいた。それが彼が行った現場工作です」
話を聞いた警察は、すぐに双葉に話を聞いた。しかし、双葉の証言はどれもあいまいでとりとめもなく、大した成果を得ることができなかった。
「おそらくショックが大きかったのでしょう。双葉は一種の健忘を起こしていたようです。無理に思い出させようとするとパニックを起こすため、早々に彼女への事情聴取は打ち切られました」
「…けん…ぼう…?」
捺波が不思議そうに繰り返した。
「ええ。人間の身体とは不思議なもので、なにか大きなストレスがかかるようなことがあった際に自らを守ろうとするのかその出来事の記憶を忘れてしまうことがあるのです。専門的に言えば解離性健忘と呼ばれるものに当たります。とにかく、そんな状態では話を聞くことも困難ですから、双葉の聴取は打ち切られ、警察はいろいろな方法で捜査を進めました。しかし…有益な情報を得ることはできませんでした。…そうして時間だけが過ぎたのです」
「…双葉のほかに目撃者がいなかったってことか」
「その通りです、燿」
そして、結局警察はそのまま捜査を打ち切り、日田家は主を喪って没落することとなる。雇われていた使用人も離れ、誰も手入れすることのなくなった日田邸は廃屋となり、今では殺人事件の起こった忌まわしき屋敷跡として誰も寄り付くことはないそうだ。
「ねえ、でもそのあと双葉はどうしてたの?お父さん死んじゃってお手伝いさんもいなくなって…って、双葉は一人ぼっちになっちゃったってことじゃん」
「ええ…双葉はそのあともしばらく入院していました。記憶は忘れていたとはいえ、大きなショックを受けたことに変わりはありません。夜にパニックを起こして飛び起きたり、食事がとれないなどの症状が残っていたのです」
幼少期に体験したこの経験は、双葉に深い深い瑕を残した。そして、その瑕の影響を抑えて人並みの生活を送るのは決して容易なことではなかった。
それは、外部の介入がなければ 不可能なほどに。
 「外部の…介入だって?」
 燿が険しい顔で訊き返す。
「そうです。双葉が…今まで明るく朗らかに過ごせるように」
十六夜も顔を翳らせて呟く。  
「介入って…誰かが双葉になにかしたみたいな言い方するじゃん」 
「そのとおりです。手を加えたのですよ。何を隠そう、この私が」 
私の言葉に全員の目が見開かれる。
「…手を加えた……?お前、双葉になにしたってんだ」
燿の声が鋭さを帯びた。例え双葉のためだったとしても、受け入れ難いなにかがあったのだろう。まあ気持ちは痛いほどわかる。

「…私が行ったのは、記憶の操作です」
「きおく…そうさ…?…双葉の…?」
「ええ。といっても大それた改変をしたわけではありません。というよりそもそも他人の記憶を完全に改ざんするなどほぼ不可能なのです。私にできたのは…双葉のつらい記憶を心の底に封じて思い出せぬようにすること程度でした」
そうして、彼女の心に刻まれたトラウマにまつわる記憶すべてを心の奥にしまい込ませてしまえば、双葉がまた人並みの生活を取り戻せると考えた。だが…現実はそううまくはいかなかった。
「ですが、やはり双葉が感じたショックは大きすぎたのです。小さな小さなきっかけで、しまい込んだはずの事件の記憶がフラッシュバックしてしまいパニックを起こしてしまう。なにがトリガーになるのかもわからない。何気なく出された食事や、ひどいときには名を呼ばれただけでフラッシュバックを起こすほどでした。だから…私は最後の手段として双葉の幼少期の記憶すべてを封じました。過去を何も思い出せなければ、そこからトリガーになることも格段に抑えられると考えて」
「…記憶すべてを…封印した…ですって…?じゃあ…双葉が前に自分の幼いころの記憶があいまいだと言っていたのは…」
「お前が双葉の記憶をいじりやがったから…ってわけか」
「ってことは、刹那が双葉って名前までわざわざつけたのは…」
「…双葉が…過去を思い出さないようにする…ため…?」
全員の言葉に、私はゆっくりとうなずいた。
「そこまでやって、ようやく双葉は次第に回復を見せ始めました。まずは少しずつ食事をとれるようになり、少しずつ体力も戻り始めました。それに合わせて、少しずつですが笑顔を見せてくれることも増えていった。ここまで戻ってくれれば、あとはフラッシュバックにだけ気を付ければよかった。でも、特に何に対しても特に反応を見せることもなく、あなた方と過ごすようになってもなにも起きなかった。それをみて、ほぼ不安材料は排除できたと思っていました。それが、まさか…」
そこまで言ったとき、燿が気づいたように続けた。
「今日の…あれか」
「ええ。あんなことは普通に生きていればそう起こることではありませんから。にもかかわらず、起きてしまって…あろうことか双葉が巻き込まれてしまった。そして…彼女のフラッシュバックを誘発したのは、おそらく自らの手についた血液、です」
「そういえば、双葉の手に少し血がついていたわ」
「それはあたしも気づいてたけど、それがなにか…」
「わかんねーのか十六夜。考えてみろよ、事件の時、双葉がどういう状態で発見されたのか」
「え?」
思い出すように虚空を見つめだす十六夜に代わり、捺波が答えた。
「…血…まみれ…」
「そういうことだ」
そう。おそらく自らの手に血が付いたことで、奥底に眠る事件の時に血を浴びた記憶とリンクしてしまったのだろう。彼女のためとはいえ無理矢理に押さえつけていた記憶が一気によみがえったのだから、脳にかかったその負担やストレスは計り知れないものだったはず。
正直、正気を保てるかどうかというレベルだろう。最悪の場合…心が砕けてしまうことだって十分あり得るのだ。双葉はまだ眠っているだろうが…起きた時が恐ろしい。

重い沈黙が流れた。

それを破ったのは、小さな物音だった。

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