
夢のような現実は青く澄んで
手に取ったその本はただ青一色なだけの、絵や表題等も存在しない一見しただけでは見逃してしまうような物だった
しかし、その透き通る様な綺麗な青の表紙に惹かれた
それはまるで秘境にひっそりと佇む泉の様に、神秘的で麗しい
その青をそっと指でなぞり、表紙を開く
その瞬間、まるで水中に沈んで行く様な感覚を覚えた
それは不思議と苦しくもなく、ただただ心地よい冷たさと柔らかい光に包まれていた
「......ここは何処でしょう...?」
私、氷柱姫がふと気がつくと泉の淵にぽつんと座り込んでいた
周りは木々が泉を囲む様に鬱蒼と生い茂っている
ここは一体何処なのだろう
もう一度ぽそりと呟いた
妖魔庁内にこの様な場所があっただろうか...
確かに妖魔庁は広い
行くのを禁止されている場所等もあり足を踏み入れてない場所の方が多いくらいだ
木々の間をじっと見つめる
そこには光すら差さず闇がずっと続いているだけだ
広い妖魔庁と言えど、こんな深い森林が妖魔庁にあるだろうか...
ぼぅ、と木々を見つめている内に私の中の様々な感情がぽつぽつと溢れ出した
「ここは何処なのか」「私は一体何をしているのか」「もし帰れなかったら」「怖い」「怖い」
その困惑と恐怖の感情で激しく動悸する心臓を抑え付け、ぶんぶんと首を振った
木々から視線を降ろせばそこには泉があった
凍っているかと錯角させる平静を保つそれは鏡の様に透き通っている
その水面に映る自分の姿越しに、深く深く吸い込まれそうな青が広がる
こんなに綺麗な泉なのに不思議と魚の類の姿は見えない
それらすらも拒む神聖な物という事なのだろうか
その透き通る清水にそっと手を伸ばそうとした時だった
「そこに居るのは誰じゃ」
「っ...?!」
突如、女性の声が耳に届き、ばっと振り返った
そこには透き通る様な長い水色の髪と、薄青と翠の衣に身を包んだ美しい女性がいた
「...何じゃ、不穏な気配を感じたが...小娘ではないか」
その女性の水色の瞳と目が合い、縮み上がる様に小さく震える
「そなた、何者じゃ
何故この様な場所におる」
「...え、えっと...」
冷水の様な瞳に見下ろされ、持たれている錫杖を突き付けられる
目の前の女性は清冽な泉の様な印象を受ける
この泉を守護されている水神様の様な方なのだろうか...
いいや、それより私は何故この様な場所に居るのだろう
今日私は確かいつも通り起き中庭を散歩した後、書庫へ行って...それから...
それから先を思い出そうとすると、ズキンと鋭い頭痛が走り、頭を抑えた
一体私は何をどうしてここへやって来たのか、頭痛を無視しどうにかして思い出そうとすると
「...無理せずとも良い
見た所、余や泉を害を与える様な輩では無さそうじゃからな...」
女性の方が錫杖を下げ、溜息を吐くと優しく微笑まれた
その笑みに私の強張っていた表情も自然に緩んだ
「驚かせる様な事を申して申し訳無かった
余は泉水蛟神、水神じゃ
そなたの名は?」
女性は私に謝られると、ずっと地に座り込んでいた私に手を差し伸べられながら、名前を言われた
泉水蛟神様、やはり水神様だったのか
差し伸べられた手のほんのりと心地よい冷たさと、清水の様に美しい容姿から水神という存在をそのまま具現化したようなお方だ
私は小さく「泉水蛟神様...」と反芻した
「私は...
氷柱女の氷柱姫と申します」
「氷柱女、とな?」
泉水蛟神様は少しだけ目を見開かれ、「随分と珍しい妖が居たものじゃな...」と呟く様に言われた
驚かれるのも無理は無いだろう
冬の妖怪である氷柱女は冬以外の季節では存在する事すら難しいのだから
「して...
そなたは一体何処から来た
身なりや種族からして山賊等の輩や旅の者では無さそうじゃが...」
私の顔や身なりを頭から足の先まで一瞥される
そうだ、私は決して山賊や旅人の類では無く、妖魔庁と呼ばれる妖怪の世界、妖魔界の中心部である場所で暮らしている
本来、妖魔庁暮らしの者は自分が妖魔庁暮らしである事を原則口外してはならないのだが、今回は致し方無いだろう
妖魔界、そして妖魔庁の主閻魔大王様に「ごめんなさい」と心の中で謝りを入れた
「私は...妖魔界の妖魔庁で暮らしている者なのですが...」
「妖魔庁じゃと?!」
あの閻魔大王様の直下か...と呟かれる
本来妖魔庁暮らしは妖魔庁務めの重鎮、しかもほんの一握りが許されるのだ
私の様な妖魔庁務めでも無い者が妖魔庁で暮らすは異例中の異例の為、私は特に妖魔庁暮らしを口外するなと閻魔様から申し遣っている
泉水蛟神様が驚愕されるのも無理は無い
「そういえば妖魔庁に閻魔大王様が気に掛けておられる妖が居ると聞いた事があったが...そなたの事であったのか」
「え、えっと...
そうかも...しれません」
どこからそんな情報を得たのだろう
やはり神様は何でも知っている、という事なのだろうか
妖魔庁は広い
私以外に異例中の異例が居るとも思えないが、はい、と答えるにもいかない為に煮え切らない曖昧な肯定をした
「しかし妙じゃ...
ここは天界、妖魔界とは全く別の世界
そなたの様な氷雪の妖が容易く来られる様な場所では無いのだが」
「天界...ですか...」
天界
閻魔様のお話や書物で聞いたり読んだ事があった
所謂天国、とは別で神々が住まう世界だと聞いた
そんな神聖な世界に私の様な輩が来てしまうとは何と罰当たりなのだろう...
私は申し訳無さに俯いた
そして何故この様な別世界に来てしまったのだろうと疑問が再び湧く
泉水蛟神様が仰った様に私には世界を越える様な強大な力は持っていない
たまに人間界に遊びに行ったりするがそれも必ず閻魔様が共に居るからだった
「私...ここに来るまでの記憶が無くて...
どうやって来たのかが全く分からないんです...」
ごめんなさい、と頭を下げる
最初の泉水蛟神様の態度を思い出してみれば歴然の様にここは穢してはならない神域なのだろう
その場所を土足で踏む様な失礼どころでは無い事をしたのだ
謝って許されるかどうか、と考えていれば
不意に肩に優しい冷たさが触れた
「謝るでない、氷柱姫」
その冷たさは泉水蛟神様の掌で、掌は続いて私の頬に触れて優しく私の顔を上げさせた
「そなたがこの泉を荒らしに来たのでは無い事ぐらい分かっておる、だから謝るな...それに」
優しく微笑まれ、頬から髪をそっと撫でられる
「そなたの容姿や妖力はこの泉の様に非常に澄んでおる
氷柱女、氷柱が人間に姿を変えたとはよく言った物じゃ」
「そ、そんな...」
妖力と容姿を褒められ、羞恥に俯く
私の様な者より、泉水蛟神様の方がもっと清く美しいのにそんな方に褒められてしまい、恐縮に思い咄嗟に俯いた顔をバッと上げた
「私より泉水蛟神様の方がお綺麗です
清く美しいながらも強さもある様な...
ご容姿の美しさから最初、水神様と聞く前から水神様かな、なんて思っておりました...」
普段から親しい者も少なく、人見知りだと自負してはいるが、どうしても伝えたい、伝えなきゃと言葉を紡ぐ
正直、上手く伝えられた自身が無く、現に泉水蛟神様もぽかん、とした表情をされている
伝えなきゃと伝えたものの、明らかに変な事を言ってしまったのだろう
咄嗟に謝ろうとすれば泉水蛟神様のお顔が一気にぼっと赤くなられた
「な、な、な、何を急に申すのだ...!
その様な事を申しても何も出ぬからな!」
お顔を真っ赤にされて叫ぶ泉水蛟神様
やはり怒らせてしまったのだろう
頭を下げ、申し訳ありませんでした、と言おうとした瞬間だった
「何、真っ赤になって照れてんだよ姫サン」
突如、笑い声を含んだ様な陽気な男性の声がした
頭を上げれば泉水蛟神様が「焔の者!」と叫んでいた
「よ、姫サン
で、そこの嬢ちゃんとは初めましてだな
俺は天焔光神、炎神だ
気軽に焔って呼んでくれ」
「天焔光神様...焔様、ですか
私は......」
「知ってる、氷柱女だろ?」
不敵な笑みを浮かべながら問われ、驚き、「どうしてそれを...」と呟く様に問う
まさか心が読める方なのだろうか...それかお会いした事が...あるのだろうか
しかし答えは全く別の物で
「まぁ姫サンとの会話を聞かせて貰っててな」
「こそこそと盗み聞きしおって...」
「そんなんじゃねぇよ
炎神である俺が姫サンとも慣れてない時に行ったら混乱どころじゃねぇだろ
氷柱女だぜ?」
まさか気を遣って下さったのだろうか
確かに焔様は炎神様の為、先程から若干暑さを覚え、失礼ながらも泉水蛟神様のお体に身を隠す様にしていた
炎神様だけあって強力な力を感じる
そばに寄るだけでただでは済まないだろう
そう思うと身震いがした
「焔の者にしては気がきくではないか」
「だろ?
で、さっき真っ赤になってた姫サンは怒ってた訳じゃなくて照れてただけだぜ
本気でキレた時は錫杖でぶっ叩くからな」
「き、貴様!
折角褒めてやったというのに余計な事を申すな!」
「いってぇ!
ほら、こんな感じに...って、姫サンいってぇってば!」
さっき、とはまさか私が謝ろうとした時だろうか
だとしたら焔様はそれを止めようとして姿を見せてくれたのだろう
そして泉水蛟神様も怒ってはいないと聞き安堵した
と同時に泉水蛟神様を怒らせないように気をつけねばと叩かれる焔様を見て強く思った
凄く痛そうだが大丈夫だろうか
「全くいってぇな...
折角、氷の嬢ちゃんが妖魔庁に戻れる様に手配してやったのによ」
「そなたが余計な事を申すから......今、何と申した?」
「だから、氷の嬢ちゃんが一秒でも早く妖魔庁に戻れる様に連絡したんだよ
もうそろそろ着く頃だぜ」
「手配...着く...?そなた何を...」
「見つけたぞ、氷柱!」
突如、聞き慣れた声が響き、振り向けば、そこには信頼を寄せる存在がいらっしゃった
「閻魔様...!」
「全く...随分と探したのだぞ
妖攫いにでもあったのではないか、と......っ?!」
私は名を呼ぶと、閻魔様に駆け寄り抱き付き、身体に顔を埋めた
普段なら羞恥の上に失礼極まりない行為
しかし、何も分からない場所に飛ばされた恐怖からの最も信頼の置ける者の救済に、つい抱きついてしまった、それだけだ
閻魔様も最初は驚かれた様に身を強張らせていたが、フッと溜息を吐かれ、頭を撫でられた
「すまぬな、もっと早く気づいてやれば良かった」
「いえ...私こそ手を煩わせてしまって申し訳ありません」
「何を言うか
お前の為だ、何処へでも行く」
その言葉に何故か、閻魔様がいらっしゃればどんな場所でも生きて行けるような安心感を覚え、堪えていた涙がじわりと溢れた
「焔もスイも氷柱が世話になった
手を煩わせてすまぬな」
「いいっていいって!
まぁ少しビビったがな、俺も姫サンも」
「口を慎まぬか、焔の者!
此奴が無礼を申し訳ありません、お久しぶりです閻魔大王」
「はっはっは!
堅苦しくならずとも良い
私とて堅苦しいのは性に合わぬからな」
「ほら、いいってさ」
「開き直るでない、この無礼者め!」
「いってぇ!」
埋めていた顔を離し、泉水蛟神様と焔様の方へ向く
そこにはバシバシと焔様を錫杖で叩く泉水蛟神様と、「暴力反対!」と叫ぶ焔様
その様子を見て、「相変わらずよなぁ...」と言う閻魔様
私もついくすっと笑ってしまった
「いってぇな...全く、今日二回目だぜ?」
「無礼な貴様の所為だろう
......兎にも角にも...良かったな、氷柱姫」
「あぁ、一時はどうなるかと思ったぜ」
「はい...
泉水蛟神様、焔様、本当にありがとうございました」
「礼には及ばぬ
神として当然の事をしたまでだ」
「あぁ
それに姫サンも満更でも無さそうだったしな
また来いよ、大王サンと一緒にでもな」
「...貴様......!
......まぁ、そなたの様に澄んだ妖気の持ち主であれば他の神々も口煩く言わぬだろう
ひ、暇があればまた来るといい」
「おーおー、また照れてんじゃねぇか?」
「や、喧しい!」
また来いよ、来るといい
お二人の言葉にじん、と胸に暖かい物を感じた
それは熱さが苦手な私が心地良く思う、そんな暖かさ
きっとそう言って頂けたのが凄く嬉しかったんだろう
私はからかい、怒る
焔様、泉水蛟神様を見て
「はい、喜んで」と言い笑った
その後、妖魔庁に戻った私に閻魔様は天界に飛んだ理由を話して下さった
原因としては、私が書庫を訪れた際に開いた本が原因だったという
「古くからある術だ
本でも何でも良い、道具に仕掛け、その道具を作動させた者を別の場所に飛ばすというな」
「な、なるほど...」
「飛ばされた場所が天界で良かったが全く...妖魔庁にこの様な術を仕掛ける者がおるとはな...」
一度建物全体を点検せねばならぬな...と閻魔様は頭を抱えられた
何度も言うが妖魔庁は広い、そんな場所全体を点検なのだから頭を抱えたくもなるだろう
私は苦笑しながらふと、窓の外に広がる青空に目が行った
妖魔町の空も綺麗だが、天界...あの場所の空は更に綺麗というか...あの場所全体が穢してはならない潔白な神聖さを感じた
焔様と泉水蛟神様
属性と怒り方、ちょっと怖い一面もあったお二人だったが、最後向けてくれた言葉は優しい物で思い出すと再び心地良い暖かさが滲んだ
またきっと会いたい
今は頭を抱えているので頼む事も出来ないが、機嫌が良い時にでも連れて行って下さいと閻魔様に頼んでみよう
今はとりあえず落ち込む閻魔様を慰めなければ、と戸棚にあった菓子を取りに席を立った
空は相変わらず、澄んだ青をしていた
焔「にしても、本当に氷みてぇだったよな、あの嬢ちゃん」
スイ「氷柱姫の事か?」
焔「あぁ
全く...普段口数の少ない上にツンツンしてる姫サンがあんな風に褒めるとはなぁ...」
スイ「き、聞いておったのか、貴様!」
焔「当たり前だろ?
まぁ水と氷、親戚みてぇな物だし親近感湧くのも無理ねぇな」
スイ「親近感等持っておらぬわ!
全く...そなたという者は...」
焔「そんな事言って、妖魔庁の泉の管理を月呼の旦那に頼んでいたのは誰だったか...」
スイ「き......聞いておったな、貴様あああああ!!」
焔「ははっ、そんな怒るなって......って、い、いてぇ!
姫サン、やめろ本気で叩くなって!おい?!姫サン?!!」